全ての事実が明るみになった後、貴嶋とはろくに話にもならず、貴嶋は供に支えられながら 帰って行った。 最後まで老人は、海里のことを名前で呼ばなかった────。 『化け物を頼む』と。 貴嶋が帰った後も、隆史はそのままサンルームのウイングソファに座ったままでいた。 奇妙な脱力感のようなものが襲って、ここから動くことができなったのだ。 やりきれない気持ちで隆史は、簡易照明以外の明かりを全て落として空を仰いだ。 天井までガラス張りのこのサンルームは、天気のいい日は星空が見える。 眼前に広がる見事な星空。なのに気分は一向に晴れない。 …それどころか、頭に浮かぶのは、あの、哀れな子供のことばかりだ。 追い出そうとしても、消えていかない面影。 決してしゃべることのない、人形のような虚ろな顔────。 「…あれは反抗でも何でもなかったのだな…」 隆史はひとりごちて、重苦しいため息をついた。 内心の苦々しさに、意識せず皮肉な笑みが口元にのぼる。 『アレは、私の孫だ』 ────貴嶋の話は、あまりに衝撃的すぎた。 『アレは、実の兄妹がした許されない行為の末この世に誕生した、汚らわしい禁断の子 です』 海里が、心を閉ざしてしまった原因が、まさかあんなことだったとは…。 「隆史様」 考えに没頭していた隆史は、聞きなれた声に呼ばれて我に返った。 声の方向に向くと、美貌の秘書が心配そうに隆史を見ている。 「…海里ですが、石道医師が診察に見えられたので、とりあえず処置して頂きました」 レイラは淡々と、報告を続けた 「頭も、見た目は派手な出血に見えましたが、特に問題ないとのことで…。ただ顔は完 治まで少し時間がかかると…。傷跡は残らないでは治るそうなんですが」 端正な秘書の青く涼しげな双眸を見返すことなく、隆史はため息混じりに口を開いた。 「会えるか?」 沈んだ面持ちでそんな問いを口にする隆史に、レイラは気遣わしげな視線を向け、 「…飲ませた鎮静剤のせいもあって、今日はもう意識が戻らないとのことですが…それ でもよろしいでしょうか?」 逆にそっと隆史に問い返す。 ほんの少しの逡巡の後、 「…顔だけでも、見たい」 疲れきった低い声で、隆史はぼそりと答えた。 海里の寝かされていた部屋は、サンルーム近くの一室。 白い壁面にところどころ施された桃色の蔓薔薇模様が、華やかかつ清楚な雰囲気の ゲストルームだった。 壁模様と同じ柄、白地に桃色蔓薔薇をあしらった天幕が、ベッドの天蓋から優美に垂れ 下がる中、 …その意匠の薔薇に埋もれるかのようにして、海里は静かに横たわっていた。 昨日とれたばかりだというのに、頭には再び包帯が巻かれ、顔は貴嶋に杖でぶたれた せいか腫れ上がり、こちらにもまた湿布が貼られていた。 浅くベッドに腰掛け、隆史はその白い顔を覗き込んだ。 罪深い両親の元、何も知らされず育った子供。 その親の庇護を失った途端、襲う悲劇。 目を閉じたその顔は、あまりにも幼くて────、 『私には到底あの化け物を可愛いとは思えなかった』 …これが愛憎劇の末路だと思うとあまりに哀しい。 隆史はそっと眠る海里の頭をなでるように手をやった。 あまりに整いすぎた、人間離れした美貌。 白なのか薄い灰色なのかわからない髪が余計にその異質ぶりを強調する。 息をしていることさえ忘れそうなその姿は、まさに人形…。 この子の後ろに横たわる事実を考えると、痛々しいとさえ思えてくる。 『あの子が…悪い訳ではないのはわかっている。…けれど、世の中には、どうしても許せな いことがある…』 何も知らなかったあの子は、ただ一人になってしまった肉親に疎まれて、 …文字通り、心身共に傷だらけになった────。 防御策だったのだろうか? あの眼差しは。 何も感じないようにすれば、傷つかなくなると…思ったのか? …哀れだと、隆史は思った。 貴嶋も、海里も、 わかりたくもないのに、 どちらの気持ちも重くて…、 「…本当のお前は、どういう人間なんだ?」 知らず、隆史は眠る海里に語りかけていた。 今どき珍しいほどに、素直な子供だったという海里。 自分には見せたことのない顔が、昔存在した。 私は、海里の本当の顔を知らない────。 知っているのは、感情のない冷めたような顔と、 あの、泣いて怯えて謝る姿だけだ…。 もし、と隆史は思った。 もし、本当に、海里が感情を取り戻す日が来たとしたら、 …生きて話をする海里と巡り会えたら、 あのよくできた『人形』が、『人間』になって動き出したら…。 一体、どんな心地がするだろう────? そこまで考えて、隆史はふと気がついた。 …どうして、こんなに気になるのか? 考えてみれば、恐ろしいことに…、 海里を手に入れてから、海里のことばかり考えている…。 今まで買ったものにここまで頓着したことは…ない。 使えるものであればいいわけだし、気が向けば抱いて、可愛がりもした。 人身売買で手に入れたものの過去などどうでもよくて、 それよりも、私を退屈させないだけの価値があるかどうかの方が重要だったのに…。 それが、海里に関してだけはどうだろう。 …あの瞳が気になって仕方がない。 ガラス玉のような…あの瞳に…、 なぜか、胸が軋むような痛みを訴える────。 そして、 『…ごめんなさい…っ…ごめんなさい…!』 あの、怯え、傷ついた色の瞳────。 …思えば感情のある顔は、泣き顔しか見ていない。 もし、と再び隆史は思いを馳せた。 あんな怯えた、暗い顔ではなく、 もっと明るい瞳を向けさせる術があるのなら…、 …そのために出来ることがあるのなら、 どこまでも何でもしてやりたいと──── …思った隆史は、そんな自分の感情に驚いた。 この感情は…一体何だろう? 無性に、して「やりたい」と思う。 ────この感情は…何だ…? 「隆史様」 すっかり考え込んでいた隆史は、突然かけられた声にびくりとした。 声の方向には、気まずげに目を伏せたレイラがいる。 そういえば、レイラがいたのをすっかり失念していた。 「何だ?」 訝しげな視線を向けると、レイラは何かを迷うように俯き、 …そして、躊躇いがちに続けた。 「…僭越ながら、先程の貴嶋様のお話、石道医師に報告させて頂きました」 レイラの言葉に隆史は目を見張った。 「医師は…専門家の指示を仰いだ方がいいと。知己の口の堅い精神科医を紹介すると言 っておりましたので、手配を頼みました」 眉間にしわを刻む隆史にかまわずに告げ、レイラは先程の迷いが嘘のように、まっすぐに 隆史を見て言った。 「出すぎた真似のお咎めはいかようにも。…申し訳ありません」 勝手なことを…と言うのは簡単だったが、隆史はあえてそうしなかった。 潔く頭を下げたレイラに、隆史はため息を一つついて、 「石道のことはわかった。今日はもう下がれ」 低く、言い放った。 隆史の許しの言葉に驚きながらも、レイラは嬉しそうに笑って、 「はい、わかりました。おやすみなさいませ、隆史様」 深く一礼をして、部屋を出て行った。 レイラが退室して、部屋には隆史と眠る海里だけが残された。 ベッドに腰掛けたまま隆史は、何をするでなくぼんやりとしたまま、何気なく窓の向こうに 視線をめぐらせた。 目に入るのは、見渡す限りの花々とトピアリーの競演。 暗闇の中でもひときわ目を奪う、中央を彩る、目も覚めるような赤い薔薇のアーチ。 英国を思わせる広大な庭園が、そこにはあった。 それは夜であっても、ガラスを隔てた向こう側で、春にふさわしい美しい姿を誇っている。 『貴方は私とは違う考えをお持ちな気がする…。せいぜいアレを、可愛がってやってくれ…』 頭に浮かぶのは、貴嶋の枯れたような眼差し────。 『化け物を頼む』 あの、苦渋に満ちた声ばかりが思い出されるようで、 いつもは見るだけで癒される自慢の庭も、今は隆史の慰めにもならなかった。 |
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