何もかも辛くて、
     僕はそこから逃げ出した。
     もう痛いのはいやだったし、
     憎まれている、想いも届かない場所。
     あそこには、もう戻りたくないと思った。

     僕さえ…いなければ、
     みんな幸せになれた。
     僕さえ…いなければ────。
     わかってても 臆病な僕は、
     怖くて死ぬことすら出来ずに、
     はんぱな姿のまま、ただ時だけが行き過ぎるのを黙って見てた。

































          
 
 
  
レイラの『出すぎた行為』の賜物か、次の日の朝、石道は一人の精神科医を連れて越智家
にやって来た。
その精神科医・里見は、引き合わせた海里の容姿を見て一瞬息を呑んだが、
「この方の事情はお聞きしております」
すぐに気を取り直して、診察を始めた。


どこから用意してきたのか、里見は脳波や心電図やCTスキャンも出来る検診車を用意して
来たらしい。
石道も手伝っての里見の診察は、まず、そのわざわざ用意した検診車での各種検査。
それを経て、次は問診へと移った。
どちらかといえば脳波などの検査より問診のほうが多く、海里本人がまったくしゃべらない
せいか、海里を知る者として隆史とレイラがこれまでの経緯を説明しなければならなかった。
色々な角度から診察するためか、中には不愉快な質問をされることもあったが、これも『治療
のため』と自分を宥め、隆史は全ての項目に答えた。
それらをカルテにまとめたりと、様々な所作を繰り返した後、里見は一つの診断を下した。
「この方の症状は病名特定が難しいところですが、重篤な精神疾患であることは間違いな
いでしょう」
なんとも曖昧な診断に、隆史の眉が寄る。
そんな反応に慣れているのか里見は、剣呑な雰囲気を漂わせ出した隆史に構わず続けた。
「この方の事情的にこうなった原因は…それだけではないでしょうが身体的虐待による苦痛
からの逃避。…あまり現実が辛くて耐えられなかったのでしょうね。痛ましいことです…」
遠いものを見るような目で海里を見つめながら、里見は、
「このように心を閉ざしてしまった方には、気長な治療が必要です」
きっぱりとした口調で隆史に宣告した。


「で、治療法は?…コレは治るのか?」
神妙な顔で隆史が尋ねると、里見は、
「それも何とも難しいところで…治るとも言えるし治るとも言い切れない…。何にせよ本人を
とりまく環境を整えてみて、それがいい刺激に繋がれば御の字というところでしょうか」
これまた曖昧な返事を寄こした。
それでは現在の状況と何が違うのだ、と隆史は憤りもあらわに里見を睨みつけた。
専門家のくせにその程度か、役立たずめ…。
と次いで責め立ててやろうと一瞬口を開いた隆史だったが…、
非難をものともしない里見の真剣な目とぶつかって、何も言えなくなった。
「とにかく心の傷から立ち直るのは本人で、私たちは少しでもその傷が癒えるようにとお手
伝いすることしか出来ません…」
里見は諭すように、隆史に告げた。
そして、戸惑う隆史に、一つの解決法を示した。
「つまりこの状態の治療とは今いる精神世界よりこちらの世界の方がいいと思わせること
です。…つまり『現実はそんなに辛いことばかりでない』とか『もう彼を傷つける者はいな
い』とかわからせて」
里見は一旦言葉を止めて、軽く息をついた。
「実感させて安心を与えてやることさえ出来れば、この方は良くなっていくかもしれません」
里見は真摯な眼差しを隆史に向けた。
「ですので、支える方々の努力も必要なのです」
里見の言葉が、重くのしかかるようで、隆史は思わず息を呑んだ。
里見はそんな隆史に
「ご無礼は承知のうえで申し上げます」
と深く一礼をしてから、顔を上げて言った。
「必要だと…少しでも思われるのなら大切にしてやって下さい。抱きしめてもいい…。
そういった無償の愛情が、この方の救いになるやもしれません」
まっすぐに隆史を見たまま悟りを開いた菩薩のような穏やかな口調で告げ、里見はゆっ
くり目を伏せた。
おそらく海里の顔や頭、そして体にに残る傷を見ての…それは隆史に対する強烈なメッ
セージだった。



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