次の日から、隆史の日常は大きく変わった。
朝起きて、海里を起こし、
自分の支度より先に海里の支度をさせる。
顔を洗って歯を磨き…髪も梳かして整える。
そして着替えをさせ、手を引いて食堂へと連れて行く。
食卓につかせ、朝食のスープをすくったスプーンを口まで運んで食べさせる。
海里は何事にも意思というものがないので、スープだけの食事でも恐ろしく時間がかかる。
が、隆史は決して焦ることなく、海里のペースで最後まで食事をさせた。
海里に全部食べさせ終わると、今度は自分の分の食事をする。
食事が終わったら、越智家ご自慢の庭が見渡せるあの明るいサンルームへと連れていき、
日当たりのいい場所に置かれている安楽椅子に、ゆっくりと座らせる。
長時間座りっぱなしでも疲れない設計のそれは、海里のために特別に作らせたものだ。
海里が腰を落ち着けたのを見計らって、
隆史は仕事へと向かうのだ。


これが里見の『案』だった。
スキンシップの機会を多く持って、あれこれ行動を供に、精神的繋がりを作る。
世話をしていくうちに、信頼関係が生まれて、
海里の心情にも変化が訪れるのではないか、と里見は言うのだ。
また先の見えない曖昧な対処策ではあるが、他にどうしようもなかった隆史はそれにすがるしか
なかった。


昼食も隆史が手ずから食べさせ、またサンルームに戻された海里は、人形のように身動きもせ
ずぼんやりとしながら、ゆっくりとした時を過ごす。
里見の案を実行し始めた日から、
『日当たりがよくて庭がよく見える場所なども、海里にはいいのではないでしょうか?』
というレイラの進言により、すっかり海里の部屋と化したサンルームは、隆史が海里の興味を引
こうと集めた品々で一杯になっていた。
サンルームは独特の窓の作りが檻のようにも見え、そこにまどろむ海里は捕らえられた鳥か
何かのようにも見える。
羽をもがれ、飛べなくなった小鳥────。
そんな鳥籠のような部屋で海里は、陽が落ちて隆史が帰ってくるまで、虚ろな眼差しでただ
そこに座って過ごすのだ。


夜、仕事を終えた隆史がまっさきにするのは、海里の食事を用意させることだった。
そうして出来てきた夕食を海里に食べさせる。
海里が全部食べ終わってから、自分の分を食べ始めるのはいつの時も同じだ。
そして食事が終わると、今度は海里を風呂に入れる。
服を脱がせ、浴室に入らせ、泡を立てたブラシで体を洗う。
側にはレイラが控えているものの、『帝王』と恐れられる隆史が、それら全てを一人で自ら行う
姿は異様な光景で────、
けれど隆史はそんな瑣末なことには頓着せず、黙々と海里を磨きたてていった。


風呂の後、隆史は海里を抱いて、自らの寝室へと運んだ。
そっと寝台へと海里を降ろし、どこを見ているのかわからない遠く感じる無表情にキスをする。
そして無言のまま、想いのたけを込めて、触れる。
触れても反応のないことに、虚しさがこみ上げてきて…、
「笑ってくれ…」
隆史は優しく、あの不思議な色の髪を梳いた。
「いや、声だけでもいい」
本当に人形を相手にしているようだと、思うのは…こんな時だ。
海里は抱きしめられた格好のまま、身じろぎ一つしない。
「動いてくれ…ほんの少しでもいい」
海里に相手にされていない自分の存在の軽さが切なくてたまらない。
……どうすれば、心を開いてくれるのか?
辛さを誤魔化すように、隆史は海里の手を取った。
そしてそのままその白い肌に口づけ…伝わる体温は、ほんのりと温かい。
鼓動を…感じる────のに…。
「何か反応を返してくれるだけでもいいんだ…」
海里を腕に抱きしめたまま、隆史はただそれだけを願った。


生まれたときから、皆が自分にかしずくことが当たり前。
今までヒトでも、モノでも、 たやすく手に入る。
それを許される自分の環境。
人が羨む容姿と一生を遊んで暮らしてもまだ余りある財産。
それがすべてだと 思っていた。
今、それらすべてが薄っぺらく見えて仕方ない。
今まで知らなかっただけなのだ、と隆史は痛感していた。
こんな風に、 一人の人間に、囚われる思考。
こんなことになるなんて、思いもしなかった。
この気持ちはなんだ?と問われれば、答えなど一つしかない。
多分私は…と隆史は歯を食いしばり顔を伏せた。
私は…海里を…、
おそらく、愛してしまったのだ────。
いつからかはわからないが、
私の中で、何よりも大切なものに変わってしまったのだ。


あの虚無で儚い存在と出会ってから、俺の価値観は音を立てて崩れた。
その痛々しい、生きながら死んでいくような瞳が、心を狂わせていく。
あの子の笑う顔が見たい。
あの子の笑う顔が見たい。
狂おしい想いが胸を渦巻いて、平坦だった日常を潰して飲み込んでいく。
日々など退屈に過ぎていくものだったはずなのに、
もう、あの子しか見えなくなってしまっている…。


…こんな風に一日中海里の世話をやいたところで、はたして海里は笑ってくれるのだろうか?
思っても、今の自分に出来ることは、これしかなくて、
間違っていても、他にどうすればお前にこの想いが届くのか、わからない。
「海里…」
呼びかける声に返事はない。
「何でお前なのかわからない…」
やりきりない歯がゆい思いを胸に、隆史は腕の中の温もりにそっと囁いた。
「愛…してる…」
歩いていくその先に、希望はどこにも見えないままに────、


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