そんな風にして日常は行き過ぎ、一つの季節が巡った。
夏の陽射しが穏やかに、越智家自慢の庭園にも降り注ぐ。
英国調の越智家の庭園は夏の花たちが今が盛りで、色とりどりの美を競い合い咲き誇って
いた。
仕事の手が開いて、今日何もすることがなくなった隆史は海里の手を取って、共にその広大
な庭園を見るともなしに歩いていた。
たまたま庭師が花たちの手入れをしていて、隆史に声をかけてくる。
それに軽く笑って答えながら、隆史は隣の海里の手をそっと引いて、ある花の正面に移動さ
せた。
「海里、この花はリシアンサスというらしい」
気まぐれに、庭師に教えられたばかり花を海里に紹介しながら、隆史は海里に微笑みかけ
た。
その満面の笑顔からは、海里への溢れんばかりの愛情が見て取れる。
その笑顔を向けられても、海里は表情ひとつ変えることなく、遠いところを見るような目で、
ただぼんやりと佇むばかりだった。
隆史はそんな海里の様子に少し苦笑いを浮かべながらも、それを気にした様子もなく、
「…日本名でいうトルコ桔梗のことらしい。あちらなど一瞬薔薇に見えるが同じものだそうだ。
色々あるものだな」
海里を見つめながら、ゆったりと語った。
2人はただ、この夢のような庭園を彷徨うように歩き続けた。


もうだいぶ歩いたので少し休もうかと思い、隆史はレイラに、庭園の中でも一際目をひく、あ
の薔薇のアーチの近くにティーテーブルと椅子を用意させ、お茶の準備をするように命じた。
手配のため屋敷に戻っていくレイラを横目で見送りながら、用意されたテーブルセットに海里
を座らせると、自身も海里のすぐ横、密着するように椅子を移動させ腰かけた。
お茶が来るまでやることもないので、心地よい風のざわめきに耳を傾けながら、隆史はそっと
海里の頭を引き寄せるように抱いた。
「海里…」
こんな穏やかな時間が自分に来るとは、数ヶ月前の自分には想像もできなかった。
自分の心が誰かに縛られる。
求めて…満たされる気持ちは、今までどんな名品を手に入れた時よりも大きくて…。
風にゆれる柔らかい髪に手を滑らせ、隆史はすくった一房に愛しそうに口づけた。
そうされていても、海里は隆史におとなしく身をゆだねたままでいる。
それが、嬉しくて…そしてほんの少し切ない。
「いつになったら、お前は…私の名を呼んでくれるのだろうな…」
隆史は静かに言って、そっと自嘲の笑みを口元に刻んだ。


毎日話しかけても変わらず返事は返ってこないから、それに慣れてしまって、
そんなものだと思い込んでいたから、
「たか…ふみ」
聞こえてきた声一瞬気づくのが遅れた。
初めは幻聴だと、そう思った。
「たかふみ」
今度は聞き間違いだと疑う余地もなく、しっかりと耳に響いた声。
信じられなくて、隆史は目を見開いた。
何か言おうと、開いた口はわなわなと震えるばかりで、まったく役に立たない。
そんな隆史を見て、海里は、
「哀しいの?」
まともな状況では初めて聞いた、抑揚のない、子供のようなあどけない声。
焦がれに焦がれた目の前の少年は、自分のほうが哀しそうな目を向けながら隆史に問いか
けた。

「違う」
と、隆史は即座に力強く否定した。
隆史は目を見開いたまま、半ば呆然と続けた。
「お前が 話してくれることはないと…」
その胸の中は今、様々な思いが交錯して、千千に乱れていた。
「思っていたから、嬉しいんだ…」
こみ上げる激情に、どうしても声が掠れる。
「ありがとう」

思いを噛みしめるように言って、
隆史は、すがるように海里を抱きしめた。
頬に濡れた感触がして、隆史は自分が泣いていることに気がついた。
どうして、涙が流れるのか…?
胸に沸いた疑問の答えは、すぐに判明した。
背中に感じた温かい手の感触────。
そうか、
嬉しいのだ、自分は。
海里が自分の名前を呼んで、
海里が自分を見て、
そして、今自分の背中に腕をまわして、抱きついてくる。
それが嬉しくてたまらなくて、
涙が…溢れて止まらないのだ、と。

霞む視界に、同じように涙にくれた秘書の姿が見える。
お茶の盆を手から滑らせ落としたらしい秘書は、落とした茶器を拾うことすらせず、中途半端
に顔に手を寄せ、小刻みに震えていた。
それを眺め、
ああ、これは夢ではないのだ、と
隆史は晴れやかな気持ちで、海里をさらに強く抱きしめた。


視界には見渡す限りの大庭園。
夏の日差しに、明るく色めく花々、渡る風の息吹。
そして、腕の中には…、
焦がれるほど求めた、白い存在────。
何より愛しくて、大切なお前と…、
巡り合い、今こうして、
抱きしめ合って、いること────。

何に感謝していいか、わからない、
この夢のような軌跡に、
隆史は海里を抱きしめたまま、そっと目を閉じた。



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