海里に明け渡してしまったせいで、いつもと違う部屋に移った隆史は、どことなく鬱々とした気分
を抱えながら横になった。
ベッドに横たわった後も落ち着くことはできず、浅い眠りを幾度か繰り返していると、空に日が昇
りだした。
いつの間にか、朝になってしまったらしい。
このまま横になっていても眠ることはできないと判断した隆史は、横になる前より疲れた体を忌々
しく思いながらも起床した。
レイラに朝食の支度をするように言付け、自身も夜着から用意させたスーツに着替えて、身なりを
整える。
最後にネクタイを、いつものように完璧なウィンザーノットに仕立てた時、
「お食事のご用意が整いました」
レイラが上品なノックとともに、声をかけてきた。
隆史がそれに短く返事を返すと、静かにドアが開かれる。
いつも繰り返される日常の所作に、隆史は満足そうな笑みを浮かべた。
…そうだ、やはりこれが私の生活だろう…?
開けられたドアをくぐりながら、隆史は思った。
──もう、昨日のようなことは決して起こらない、と。


それが間違いだったと隆史が気づかされたのは、朝食後のお茶を楽しんでいる時だった。
「そういえば、アレはどうしている?」
気まぐれに海里の様子を聞いた隆史に、レイラはびくりと肩を震わせた。
そんなレイラの態度にいぶかしいものを感じながらも、隆史はなおも海里の様子を尋ねた。
「もう起きているか? 起きているなら話がしたいのだが…」
隆史の言葉に、レイラは気まずげに目を反らした。
「それが…」
レイラはためらいがちに言を継ぐ。
「…起きてはいるのですが、話しかけても昨日と同じく無反応で…」
レイラの報告に、隆史は思わず手にしたカップを取り落としそうになった。
「…なん、だと」
呆然と問い返す隆史に、レイラは気遣わしげに視線を送った。
「私がいくら話しかけても答えず、何をするでもなく、ベッドに横になっています…」
お会いになられますか?と小さく続けたレイラに、隆史は無言で立ち上がり、面会の意を示した。


朝日の立ち込める隆史の寝室は、昨日の惨状が嘘のように、穏やかな光をたたえ、意匠の施さ
れた天蓋つきのベッドを明るく照らしていた。
そこにいた海里は、レイラの報告どおりの姿で、ただ力なく横たわっていた。
現れた隆史とレイラにも頓着した様子はなく、包帯と湿布に彩られた小さな顔は何の感情も見ら
れない。
リネンの白い布地が光を浴びて輝くように光る中、何を写すでないその瞳はまるで人形のようで、
隆史は動揺を隠し切れなかった。
「力及ばず申し訳ありませんが、起きてからずっとこの調子です…」
レイラが弱りきったような顔をして、頭を下げ謝罪する。
レイラとしても、助けようにも助けようのない、物言わぬ海里の態度にどうしていいのかわからな
いのだろう。
それは隆史も同様だった。
…昨夜、確かに泣いて許しを請い感情のある姿を見せていたというのに。
未知の快楽に、怯えたように、この少年は幼い顔で自分を見ていたのに…。
今目の前にあるのは、怯えるでも萎縮するでもない、少年の無表情…。
あれだけの目にあって、この少年は、まだなお反抗的でいられるというのか?
日の光の明るさの中で一層白く見える肌に、隆史は戦慄を覚え、後ずさった。
隆史は壊れた人形のような海里を信じられないものを見る目で見つめながら、ふいに夕べの石
道の診断を思い出していた。
『この者の体には古い傷跡らしきものが無数に…』
『大小さまざまで方向も定まらないこれは…虐待の痕か何かのように見えます』
次々と浮かんでは消える石道の声が、責めるように隆史の脳裏で響く。
馬鹿な、と昨日は否定出来た石道の言葉を、今日は笑えない自分がいた。
『この者は過去の精神的ショックか何かで心を閉ざしてしまっている可能性も否定できません』
頭の中に、昨夜の石道の言葉がリフレインする。
隆史の頭に、虐待の二文字がよぎる。
脳裏に浮かんだままのそれを、もう否定することもできず、隆史は呆然と海里を見やった。
押し寄せる罪悪感のような感情に、隆史はしばらくそのまま目を見開いて、目の前の少年を言葉
もなく見つめていたが、
『もし、この者が隆史様のもとに来る前、3ヶ月以上の虐待を受けていたとしたら、この者が
しゃべらないことと何か関係があるかもしれません』
頭に浮かんだ石道の言葉に、我に返ったように顔を改めた。
そしてそのままレイラを呼ぶと、真摯な眼差しで忠実な秘書に語りかけた。
「コレのこの態度が気にかかる。…夕べの石道の話は聞いていたな?」
「はい、存じております」
レイラも気を取り直したように、いつもの落ち着いた口調で返した。
そのレイラに、隆史は次なる命令を下した。
「海里の、オークションにかけられるまでの生活と背景が知りたい。至急調べさせろ」
「御意」
隆史の命令に、レイラは丁寧に頷くと、部屋を後にした。
残された隆史は、横たわる華奢で綺麗な、白い美貌に再び目を向けた。
包帯と湿布を施された、痛々しい姿が、余計壊れた人形を思わせる。
覗き込むように見ても、海里の目は隆史を映すことなく、どこか虚空を彷徨っている。
感情のないその瞳は、ずっと見ていると無言で責められているような気さえしてくる。
自分がひどく間違った事をしてしまった気がして、隆史は震える手をきつく握った。
「…すまなかった」
小さく、そんな言葉が口をついて出た。
けれど、その謝罪も壊れた人形のような少年には届いた気配もなく、
少年はただその無感動な目を、見るともなしに宙に向けて横たわるばかりだった。



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